ホラほら通信
■『修験道法螺之正譜』について
 山形県山辺町にある和光院は現在は天台宗山門派であると共に、熊野権現を祀る験門の法燈を守る祈願寺院である。その和光院が所蔵しているコピーが今回紹介する『修験道法螺之正譜』だ。
 
和光院(山形県山辺町)
 
『修験道法螺之正譜』

 この譜については、実は以前からその存在が一部の行者の間で知られていた。『立螺秘巻』の著者である本間龍演師が昭和54年にこの和光院文書を収集していたのである。当時、本間師と交流があった羽黒修験の研究者・戸川安章氏を通じて、この譜は一部の行者や研究者の手に渡った。しかし、『修験道法螺之正譜』は、本山・当山派の何れにも属さないその独特の立螺の音構成から、その正当性自体が疑問視されていた。端的に云えば偽書扱いに近い扱いを受けていたのである。

奥書の意味
 今回、和光院から見つかった『修験道法螺之正譜』には、これまでには無かった内容が含まれている。その内容とは奥書である。そこには大正九年十月三日の日付と共に、羽黒山総本寺執行、當峰大先達豎者法印嶋津伝導と記されていたのである。嶋津伝導師とは『羽黒派修験道提要』を昭和12年に著わした三代前の羽黒山の大先達である。

奥書部分

 偽書から一転して、この『修験道法螺之正譜』は、既に消え失せて久しくなっている羽黒派の立螺作法である可能性が出て来た。そこで早速コピーを羽黒山正善院の島津弘海大先達に送り、奥書の真偽を確かめる事となった。速達で送った翌々日、早速に電話でその結果を確かめた処、残念ながら奥書は伝導師のものではなく、授与されたとされる佐藤照善なる人物が自ら書いたらしいとの見解であった。

なお羽黒直伝の可能性あり
 しかしながら、私は『修験道法螺之正譜』が羽黒直伝である可能性を捨ててはいない。そらは次の様な理由からである。
 体裁上授与されたかたちとなっている佐藤照善師は、現在の和光院の三代前の師匠にあたる人物である(昭和28年に68歳で亡くなられた)。当時、羽黒は廃仏棄釈以来、天台宗に帰属させられていた。昭和2年の旧の4月8日に、山形市の宝光院で催された山形市総合花祭りの写真に、7人の僧侶が映っている。その内二人は羽黒の市松模様の装束を身に付けている。当時、羽黒の正善院は天台宗羽黒部の、そして宝光院は山寺部の宗務所であった。写真でも分かる様に、天台沙門で正善院の峰中に参加し羽黒の行を修めた先達たちが存在した事は間違いないのだ。

 当時、山形で羽黒に縁のあった行者を含めた天台門で修験者が集団で講的に法螺を学んでいた事実がある。和光院に教本として使われていたものと思われる謄写版刷りの和綴じ本が存在している。即ち、この『修験道法螺之正譜』は、少なくとも偽書などではなく、実際に戦前までは確実に吹かれていた立螺作法なのである。
謄写版刷りの和綴じ本(和光院蔵)

 譜の中の音の構成であるが、「音」と「秘」と表す二音のみとなっている。羽黒の立螺作法は左手に智杖を持ち、右手で貝を持つとされている事からも、口金をしっかり押さえる必要がある高音を吹く事は困難である。実際に、揺りなどの高音は、羽黒では下音(品)とされ三山を汚すとされ、法螺は乙、甲の二音のみで立てる習わしがあるのだ。こうした伝承と『修験道法螺之正譜』の音構成は一致しているのだ。


古式色の強い内容
 今日の立螺は、当山派は勿論、本山派共に、音構成など昭和15年に本間龍演師が著わした『立螺秘巻』の影響を強く受けているといえる。確かに吉野という舞台で吹かれていた法螺であるから、両者共通する処が大であると云う考え方もあろう。しかしそれでは余りにも芸がないではないか。装束も祈祷作法も異なる山伏でありながら、両派の法螺が似ていて良い筈はないと思うのだが。
 各派とも法螺の伝承は楽譜ではなく口伝で行われていた事実がある。『立螺秘巻』以前は譜面で残す事などはあり得なかったのである。また法螺の音は一朝一夕で吹けるものではない。そうした伝承の困難さからも、法螺の音が変容して本来の伝統が薄れていた事は想像に難くない。実際に三井寺の法螺は、現在は彦山流の立螺が充てられてはいるが、本来の三井流の法螺は、福岡市の本行院住職・藤野賢隆師一人しか伝承していない。羽黒に関しては、正式な法螺は現在は誰一人として吹いていないのだ。
 吉野でも、元々はあったであろう各派の立螺は、永い年月の間に互いに変容し、融合し合った部分がかなりあるのではなかろうか。そうした背景に『立螺秘巻』が、両派の立螺に与えた影響は大きなものがあったであろう。両派が行う奥駈けという修行に共通性があるとは云え、作法としての立螺の演目が、両者ともに『立螺秘巻』とほぼ同一となっている事などがその理由として挙げられる。
 『修験道法螺之正譜』に収めれれている立螺は全部で十一作法に上り、その音構成は独特である。「出螺」、「入螺」は共に甲5音を中心とする。この5という数は恐らくは五悔の、懺悔、勧請、随喜、回向、発願に通じるものと推察している。宿出、宿入りの度に行者に修行の眼目である心構えを説いたのではなかろうか。「上り案内螺」の甲10音は十界行、「下り案内螺」の甲8音は八正道を、「別螺」の甲3音は三山を。そして、「門前螺」で吹く七五三の甲音は注連を表すのではと思われる。
 神仏習合時代、その立螺は多様な音色があったと想像される。即ち、神に対して捧げる法螺、そして仏に対して捧げる法螺があったであろう事は想像に難くない。しかし今日伝わる立螺は、全てが本尊法螺だけである。私は、神仏分離の影響が法螺にまで及んだ結果、葬られたいくつかの立螺作法があったのではないかと、思い巡らしてきた。こうした積年の疑問に対しても『修験道法螺之正譜』は啓示を与えてくれた。そこには「本尊螺」の他に、「神前螺」、「神変螺」、「仏前螺」の存在があった事だ。羽黒を始めとする出羽三山には神仏習合色の濃い拝処が今も残されている。こうした法螺は、それぞれの拝処で吹き分けられていた事実を告げるものであろう。

検討課題
 さて、最後に幾つかの点を整理しなくてはならない。
 まずはこの『修験道法螺之正譜』の正当性の有無である。残念だが奥書は怪しい。しかし、だからと言って、この譜面が羽黒のものだとも、そうでないとも言えない。このコピーが写しだとしたら原本がある筈である。それを発見する以外に、『修験道法螺之正譜』が羽黒の法螺と断定する事は出来ない。ともあれ『立螺秘巻』以前に出羽の修験衆が実際に吹いていた法螺の譜面が存在していた事実は大いに注目されよう。
 もう一つ気になる事は、『修験道法螺之正譜』と嶋津伝導師が昭和12年に著わした『羽黒派修験道提要』とでは、法螺に関する記述に違いがある事である。法螺の音構成や種類が異なっているからだ。実は『羽黒派修験道提要』に記されている立螺作法は、当山派の『立螺秘巻』の音構成と違いがない。『羽黒派修験道提要』が昭和12年に、『立螺秘巻』が昭和15年に世に出ており、法螺の記述に関しては、『羽黒派修験道提要』の方が『立螺秘巻』より先行している。嶋津師と本間師は、羽黒派(当時は天台宗)と当山派と、派は違っていても、共に山形県内で活躍していた行者であった事から、実際にお互いに行き来があった事は確かだ。これまでに私は、「『立螺秘巻』は醍醐(当山派)の法螺ではない」と言う醍醐の行者と何人も出会った事もあり、逆に『立螺秘巻』が大いに羽黒の影響を受けているのではと思っていた時期もあった。しかし、『修験道法螺之正譜』を羽黒ゆかりの行者たちが吹いていた事実がある事から、『羽黒派修験道提要』と『立螺秘巻』の共通性よりも、むしろ『羽黒派修験道提要』と『修験道法螺之正譜』との差異を精査する必要があるだろう。
 いずれにしても『修験道法螺之正譜』は偽書でなく、『立螺秘巻』とは一線を画す、神仏習合時代の立螺作法を今日に伝える貴重な譜面であるという事は確かな事である。