その8 カーシー・パーガル

ダシャスヴァーメード・ガートは、通称、メイン・ガートと呼ばれ、ヴァーラーナスィーで最も規模の大きい沐浴場です。日の出から日没まで、常に大勢のヒンドゥ、海外からの観光客、土産物や神様のポスターを売る露天商、喜捨を乞う人、野良犬等々で賑わいを見せております。大小無数の商店が建ち並ぶゴードリヤー通りから、ダシャスヴァーメード・ガートへ続く参道を数十メートル前で右に入りますと、ベンゴリー・レーンと呼ばれる細い路が続いております。ベンガル地方からの移住者が多く住むことからこの名が付けられたのでしょう。この小路へ入りますと、すぐにカーマルーパ・マット(Kamarupa Math)という魅惑的な名前のお寺の門が見えてきます。門前を左へ進みますと、小路はくねくねと曲がり、枝分かれし、毛細血管のような複雑さでどこまでも伸びております。しかしそのいずれの血管も、お香や石鹸などを売る雑貨屋、ベンガル風のお菓子屋、小さな食堂、チャイ屋、様々な職人さんのお店、無数の神様の祠やお寺を経由しつつ、最後にはガンガー河へ流れ込むような形になっております。ターントリカやアゴーリ、ナーガ・ババ達の修行場であり、聖なる火葬場を中心とするガンガー河のほとりを反同心円状に、数十の沐浴場があります。
 
このベンゴリー・レーンは、わたしの人生に大きな変化を与える人々との出会いを溢れるほど用意し、与えてくれましたが、その中で強烈な存在感を以ってわたしの前を通り過ぎたお方がおられました。年齢は四十歳前後だと思いますが、彼の本当の名前を知る人はおりません。ただ、現地の人々によって、「カーシー・パーガル」と呼ばれておりました。カーシーは光、パーガルは狂人という意味です。彼は、いつも破れた服を着、はだしか、足に布を巻き、持ち物といえるものは何一つ持たず、喜捨を乞いつつこの小路を彷徨うのでした。彼はよく大声で何か喋っておりましたが、勿論わたしには全く聞き取れませんでした。また他の時は道端に座り込んで布施された食べ物を食べていたり、布を被って寝ていたりすることがありました。
ある日、わたしはベンガル人のお友達に、カーシー・パーガルのことを尋ねました。
 わたし「あの方はいつも何か大声で独り言を言っているけれど、何て言ってるか分かるかい?」
 お友達「ああ、彼はね、『わたしは王だ!! わたしは王だ!!』といつも言ってるんだよ、、、。」

ベンゴリー・レーン界隈の商店、食堂では、彼がやってきて店先で何事か大きい声で叫ぶとすぐに誰か出てきて、幾許かのお金や食べ物を布施するのが常でした。ある日、わたしは某オープン・カフェでお茶をすすりながら本を読んでいましたが、そこにカーシー・パーガルがやってきました。彼の姿を見るや否や、カフェの主は店員にすぐに喜捨を持って行くよう命じました。喜捨をもらうと、カーシー・パーガルはすぐに去って行きました。
「ヒンドゥの考え方では、一所不在の乞食(ベガー)(こつじき)や遊行者に喜捨をするというのは最大の善行であり、その功徳は、死後ダイレクトに天国に転生することができると信じられているのだよ」と教えてくれたカフェの主の、遠い眼差しは、共同体の境界を横断し続けることで不浄を担わされ、かつ異界から祝福もたらす聖人としてのカーシー・パーガルに対する畏敬とやさしさが読み取れました。
またある日、何かの用事でベンゴリー・レーンの方へ歩いて行くと、カーシー・パーガルが、界隈の家の軒下に座っておられました。いつものように彼は一人で、何か大声で喋っておられました。道は狭く、わたしは彼のすぐ傍らを通り過ぎるような格好になりました。わたしは一寸緊張しながら彼の前に近づいていきました。

・・・彼は圧倒的な〈存在〉を放射しておりました。彼は、世界の根源、限りなく深い地下にまで根を下ろし、その根源という泉からこの世に〈存在〉の特別なエナジーを汲み出しているようでした。しかしきっと、この「特別なエナジー」という言い方は正しくありません。それはもしもこう言って良ければ、〈存在そのもの〉と言った方が適切かと思います。わたしの身体は、彼というその圧倒的な〈存在〉の前に、わたしが何事かこれまで積み上げてきたものなど、まさしく無に等しい、という直感に貫かれました。

「Do rupi dijie !!! (2ルピーください!!!)」

雷のような彼の声が響きました。わたしは彼の放つ巨大な〈存在〉に、押し潰されそうになりながら、わたしは2ルピーをポケットから取り出し、おずおずと彼に差し出しました。刹那、わたしは彼と眼が合いました。それは、その場でわたしが彼を〈見た〉という行為など完全に無化されるような、むしろ、わたしが彼によって全面的に〈観られた〉というべき危機的な事態でした。彼は喜捨を受け取り、そのように一瞬眼があった後すぐ眼をそらし、わたしもその場を立ち去ったのでした。

1999年の12月、北インドは記録的な寒波が襲い、ビハール州などの貧しい地域では、路上生活者や、リクシャーを牽く労働者が何百人も凍死した、とテレビのニュースが告げておりました。アーシュラマには勿論、暖房というものはありませんから、お寺に一つだけあった、お茶を作るときのお湯を沸かす為の古い電気コンロを使って、みんなで代わりばんこに手の平を暖めるというのが関の山でした。その時分、わたしはあるお方に命じられ、自室に籠もって或る行法の練習に取り組んでおりました。夜中の二時ごろ、辺りが冷たく静まり返る中、わたしは鹿皮のアーサナの上に、ありったけの布を身体に巻きつけて座っていましたが、何やら外から大きな声が聞こえてきます。それは、かのカーシー・パーガルの声でした。彼の声は、極寒の暗闇を行ったり来たりしておりました。何というエナジー。つい数日前まで、破れてお尻が丸見えのようなズボンを履き、何処かから拾ってきた靴も壊れて足の先が見えており、およそ防寒の役に立たないような格好をしておられた彼が、いったい、この凍死してもおかしくはない夜に如何されているのだろう。普通の人間ならば、この厳寒の夜、外に居たら凍死してしまう恐れが高いはずです。ということは、彼は単に〈カーシーの狂人〉にあらず、暑さ寒さを克服した一人のヨーギー(yogi)、苦行者(tapasvi)なのではなかろうか、と思えて仕方が無いのでした。また、彼が『わたしは王だ!!』と叫んでいたことも、あながち間違っているわけではないのだ、という気がしました。
翌朝、わたしはまだ濃い霧のかかる外を歩いてみました。かつてわたしが病気になって寝込んだ時に平癒を祈ったピッパラ樹の、少し奥の方に彼は座って居られました。そして、彼はいつもと変わらないような〈存在〉を放射しているように見えました。そして太陽が輝き始め、ピッパラ樹女神参拝の人々の往来が激しくなると、彼もまた霧が消えて行くごとく何処へか彷徨って行くのでした。

カーシー・パーガル=カーシーの狂人。彼はわたしが忘れることのできぬお方の一人です。数々の自由思想家達を生み、またインド全国から偉大な聖者達を引き寄せた聖なる都、カーシーの名を冠したお方は、ある一人のお方―――カーシー・ヴィシュヴァナート(=シヴァ)を除いては、ほとんど例がないのです。

井口賢匠(Shivanada)氏 プロフィール
1969年、新潟県生まれ。大正大学仏教学部卒。専攻梵文学(卒論『三昧についての一考察-Yogasutra第一章三昧品を中心として』)。1988年に観光渡印、1993年、四大仏蹟巡拝。1997年、1999年に各半年間、Uttarapradesh州の古都Varanasiにて、Tantraraja Bolanath  Mishra Maharaj Jiに師事し、Kaula派に入門する。Akhil Bharatiya Tantrika Samaja会員。整体師。埼玉県在住。