その18 「聖性の運動」(最終回)

 仏教における数珠の起源について『織田仏教大辞典』では、比丘達が布薩(巴:uposatha,upoSadha,poSadha)の日を計算する為に黒白月を表す三十珠が用いられたことにあるのではないか、とあります(*1)。しかし空が曇っていなければ、夜空の月の形を見れば、新月、満月に近いかどうかはだいたい明らかなので、布薩が行われる日を知る為に本当に数珠を用いる必要があったかどうかは疑問です。また一方、数珠の使用の故事について、『仏説木患子経』(*2)というお経には、三宝の名を百萬遍心を集中して称えれば涅槃に至る事さえ可能といい、その際、三宝の名を称える回数を計算する為に数珠が使われ始めたというのが、仏教における数珠使用の由来としてそれらしい感じがします。しかし、原始仏教サンガ内において、本当にそのように三宝の名を百萬遍称えるということが仏道修行のスタンダードに行われたかといえば、その可能性は殆どなかっただろうと思います。この短い『仏説木患子経』というお経には、おそらく二つの要点があります。一つは三宝の名を「口称する行為」そのものに意味を持たせること、今一つはその三宝の名を称える際に、百萬遍という「数量」が強く意識されていたということです。

 この二つの「口称する行為」と「数量の意識」は、それぞれ別個に興味深いテーマとを提供しているように思われますが、それはともかく、これまでの文章の断片から読者の皆さんも既にお気づきのように、このような『仏説木患子経』が勧める実践は、純密に先行する雑密の〈念誦 japa〉という方法論へと通底し、また中国の初期浄土教における祖師達の行った修行スタイル(*3)とも大きく重なっていることが分かります。
 これら「口称する行為」と「数量への意識」は、仏教の発生以前から、インドや東南アジアにおける土着信仰の普遍的な地層を形成していたと考えられます。これは当然、インドの古い時代から現代にかけて今も生きる、オーソドックスなヒンドゥの人々、またそこにおける特殊な信仰スタイルとしてのターントリカ達のマントラ(mantra)の問題、そして吾が邦では念仏や題目の問題とも共通な地平の事柄として繋がってくるものと思われます(*4)。
 
 ところで、そのようなことを今のように考える遥か以前のこと、お話はかなり遡りますが1997年の旅の初めに、わたしはカルカッタにある上座部系某仏教協会に数日間ご厄介になっていたことがありました。当時協会には主に南方上座部からチベット仏教など、種々の宗派の僧侶の為に設けられた宿泊施設があり、また小学校も併設されていました。そこでの滞在は、当時のわたしの旅の本題とは異なるものでしたが、わたしはそこで協会の理事を始め、比丘(出家僧)たちから親しく上座部仏教の話を伺ったり、共に『ダンマパダ』を詠唱したり、個人的にヴィパッサナー(*5)の指導を受けたり、はたまた或る若い比丘の恋の悩み(!)を何故か俗人のこちらが聴くことになったりと、一風変わった経験もすることが出来ました。そうこうしながら、ある時ふと気がついたことは、南方上座部系の僧侶も信徒も共に、数珠(念珠)という吾が邦の仏事法事には必携の仏具を誰一人所持していない、ということでした。理事にこのことをお訊ねしたところ、「それ(数珠)はね、‘別なもの’なんだよ」という短いお答えでした。この時、理事はそれ以上のことを何も述べられませんでしたが、言わんとする‘別なもの’とは勿論、数珠が非仏教起源の信仰アイテムである、という意味でした。それ迄、数珠といえば単純に仏教に関係する道具、一仏具、という慣習的な観念の連合としてわたしの頭の中で固定していたのですが、以来、数珠の姿形は、仏教の側(この場合、吾が邦の北伝仏教)から見ても、また非仏教の側から見ても、それら両者の〈間〉で妖しく運動する物体ように感じられてきたのです。今村仁司の「区別され分離された両極への二重参加」(*6)とは、この数珠が用いられる時になされる秘密の活動と考えてよいと思います。実際、数珠の形状は真言や念仏の音節に合わせ、身をくねらせつつ仏教と非仏教の〈間〉を運動し往復してきたのでした。身をくねらせる動き。このとらえ処のない妖しい動きこそ、〈聖性〉のありさまをよく象徴しているとわたしには思われます。

空の受肉

 数珠以外にも大乗仏教の世界では、複数の領域にまたがりつつ同時に各領域に参加する道具、シンボリックな姿や言葉が無数に存在しています。大乗仏教が表現した世界に一たび足を踏み入れると、それがカヴァーする範囲の余りの広大さ、豊穣さに驚嘆したり呆然とせずにいられません。国宝の仏像で有名な京都や奈良の大寺院―――見るものを圧倒する千本の手と千の眼をもつ千手観音の姿、甲冑を纏った臨戦態勢の四天王、観音二十八部衆といった異形の神々、五大明王の憤怒の形相と青黒い皮膚、燃え上がる火炎の中の透明な宝珠、憤怒形の護法神によって振り上げられる金剛杵、菩薩たちの流れるような印契の指先。わたしはこれらのイメージを眺めるとき、まるで物質として静止した木仏金仏が、仏教と非仏教の〈間〉で踊り出し、血沸き肉踊る様子が現出してくる錯覚にとらわれてしまいます。
 しかし、もと大乗仏教は、そのように血沸き肉踊りつつ、言葉で囲いこまれた意味を乗り越える事、禁止=差異をどこまでも超え出て行かざるを得ない運動の危険さと共にあったのではないか。そう考える時、インド仏教史の最後を飾った密教が、土着の信仰習俗と殆ど変わらぬ形へと変身し展開したのは、わたしの身体的な実感において完全に必然となります。すなわち大乗仏教の空観が、〈いっさい〉に向かって開かれていることを観たとき、世俗の習俗やそれと一体になった信仰生活を排除的に退けることには意味、或いは実体がない、という考えに至るのはむしろ自然であるからです。大乗の空観は、動的な実践において現実にどうだったか今は置くとして、理念の世界ではインドの隅々に浸透し、インドの〈いっさい〉をそっくり掬い取り、日常的な生理現象の〈いっさい〉にも受肉を成就したからこそ、ヒンドゥイズムの用いる表象との差異が殆どゼロに近くなる自由が可能になったのです。
  しばしばそのような密教は、インド仏教史の最後にヴェーダや土着の信仰を多く取り入れ、遂にはヒンドゥ・タントリズムとの表現の差異を限界まで無化したことが、ネガティヴな退廃や堕落であったように受け取られ、恰もその責任が密教それ自体の所為であるかのように見なされている所があります。しかしきっとこういった見なされ方では、いつまでたっても大乗、もしくは大乗の思想実践を可能に為さしめる空観それ自体が、その受胎発生時より孕んでいた危険な性格から都合よく目を背けていくような隠蔽に感じられてならないのです。〈空〉で始まった初期の大乗仏教がその至高の産声をあげたその時から、大乗の生命は世間的な事物現象の〈いっさい〉、無限の表象、たとえそれが最も卑俗な「生理現象」であろうと「土俗信仰の慣習」であろうと、‘受肉’してゆき、聖俗不二の立場を全面に押し出してくるのは、単に時間の問題として必然の帰結でした。それが生き生きと活動し展開する場とは、己に最も近いもの、即ち生きて生活する〈この身体〉であり、それを仏や法、智慧や慈悲の根拠としなければならないというのが、インド大乗後期として現れた密教の気づきであったのではないか。そのことは吾が邦の空海によって伝えられた〈‘即身’成仏〉論にも継承されたテーマであったとわたしは予想しています。
 
般若波羅密と身体

 〈この身体〉への問題意識は、6世紀以降の密教において現れたのが最初というわけではありません。いま、そのことを見るために四念処観の例を挙げて見たいと思います。
 四念処観は、a)身、b)受、c)心、d)法といった人間存在のあり方の四つのレヴェルに対し漸次、(1)不浄、(2)苦、(3)無常、(4)無我という浅から深に至る観察を只管続ける、南伝上座部仏教の定学(*6)のひとつであったと言われています。これにはまず、視覚的身体像の中に、人間が自然にぞっとしたり、不安な気持ちになったりする分泌物や排泄物、また体内の血液や血管、骨などを次々にヴィヴィッドな観想をしてゆきながら、そこに本能的に生起してくる不安な感情と向き合ってゆくことから始まります。原始仏教サンガで比丘たちに修められたらしいこの有名な四念処観という修道においては、人間存在のいっさいの苦の生起が、長い生物的進化や文明社会化の中で獲得してきたヒトの自己認識のプロセスに、〈この身体〉への態度が不可避な媒体として普遍的に関わっていることをはっきり自覚していて、その縁起を明らかにすべくまさに身体へと入っていったのです(*7)。 
 上で四念処観を例に挙げて見てきたように、身体を強く意識した修道法は、インド仏教史の最後を飾る密教の時代において、当時の伝統医学(*8)の生理学や病理学説を借りつつ、体系的な身体論的修道論として再構築されます。釈尊の説法はしばしば応病与薬といわれるように、人々の問題に応じた教えをそれぞれに説くものでしたが、つまるところ仏教の修道とは、通常の自己存在を悉く病者とみなしてこれに根源的な治療を施そうとすることに他なりません。そこで煩悩の退治を行なおうとする修行者の態度は、病としての苦とその制御を目的とする当時の伝統医学と重なり合い、それを取り入れようとしたのもまた、当時の修行者にとって自然な真面目さであったでしょう。伝統医学理論を採用した後期密教の観想法では、〈この身体〉を観想と呼吸感覚を仲立ちにしながら、諸仏のマンダラ出生の場に作り変えて行く作業を繰り返します。
 身体を不浄と見て取りこれを厭離しようとする原始仏教と、身体の上に諸仏の清浄なマンダラの浄土を観る後期密教とでは、同じ身体に関わりながらも両者は180度正反対の態度で向き合っているように見えます。むかし、学校で仏教史を齧り始めたころ、同じ仏教と言われながらも原始仏教と後期密教の間に鋭く横たわるように見えた乖離は、わたしにとっては到底理解し難い、受け入れ難いものでした。そのような時、いろいろ頭を悩ませながら、そうした乖離の不安に一つの落ち着きを与えてくれたのが、玄奘訳『般若心経』の有名な一節、「色即是空、空即是色」でした。身体の不浄を観じて虚妄の知覚認識を離れるを色即是空、虚妄を離れた智から刻々と産出され続ける新しい意味の世界の中に生かされているのが空即是色ととらえ返す時、初めて原始仏教も大乗も一つの仏の世界の立ち現れている、と了解できるような気がします。色(有相)から無相(空)、無相(空)から有相(色)へ。これらの往相還相は、互いに妨げあうことなく仏の心臓として響いている事を明かすのがこの玄奘の『般若心経』であり、そこでは末尾の呪(マントラ)がまさにその生々しい仏の心音のようにも聞こえてきます。
 
 「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサムガテー、ボーディ スヴァーハー(gate, gate, pAragate, pArasaMgate, bodhi, svAhA)」(*9)。
 
 さて、いまわたしが『般若心経』というよく知られたお経をアナロジー風に持ち出して、身体を本源的な行の場として捉えた上座部と密教が、正反対の表現を〈仏教〉の中で展開してきたことについて次のように考えます。
 生きているなまの身体は、常に内外からの混沌とした、膨大な量の刺激を処理しながらそれを大きく快/快、生命維持と繁殖にとり有用、有害な情報へと振り分けています。この暴流の如き渾沌を大きく快/不快に振り分けてゆく働きとは、身体が既に二つの原初的な意味を生成し続けていることに他なりません。身体はその基底において、快不快の相対する二つの原初の意味を生成し、語り続ける運動です。よってそのように世界を構造化する場=〈身体〉を直接の修習の場にした歴史上の仏教者達が意味生成の根源に潜り、そこから生に対して一見、対立する二つの表現、即ち原始仏教の現世否定と大乗仏教の現世肯定のベクトルを引き出して来たことは、身体生命が二つの意味を語り続けることからして必然であったとさえ言ってもよいでしょう。『般若心経』の「色即是空」「空即是色」という二つの表現が観自在菩薩の行じた般若波羅密という智の中に収まってしまったように、上座部から密教という相反するように見える二つの表現は、身体生命のはたらき、つまり〈この身体〉の中に由来しつつ包摂されているのです。
 
末法的身体

 しかしいま、身体感覚の多くは概念的な記号によって置き換わってしまっており、‘なま’のそれは日常世界の周辺へ遠く排除されてしまったことが、今後ますます密教のみならず広く諸思想の瑞々しさを枯渇させ、その方法論の可能性を失わせてしまうのではないかと危ぶまれます。さらにこれは近年、所謂ニューエイジの人々により活字として発表される「他者の神秘体験」の記述が際限なく模倣(コピー)されてゆく現状でもあり、伝統的なヒンドゥ・タントラ、日本の密教や禅が、共にその具体的な体験内容を師以外に明かすことを厳秘とする態度とは対極にあることを、これから身体論を含む〈道〉に進もうとされる方は充分理解しておく必要があると思います。

 ところで、これも私事になってしまいますが、実はわたしは本業の他に、ひょんなことからとても小さなハタ・ヨーガの練習サークルを指導するようになってかれこれ十三年になります。そこで少数ながら生徒さん達の練習を継続的に見てきた経験から思うのは、人々がなまの身体感覚に近づき、自身の身体をよく観てみようとすることが何と難しくなってしまったことか、ということです。これは別な言い方をすれば、わたし達が体内を心を静めて観じ(/感じ)、自然な身体感覚を意識の領域に引き出すことが至難の業になっており、意識主体=自我の延長として‘身体が存ずる’ことを半ば忘却している状態、と表現できるかと思います。このような身体と意識の双疎外的な関わり方で生活を埋め尽くしてしまうときは、人は自ら病を作ってしまう方向性や前病的症状に対して極めて鈍感となり、相当強い痛みや不具合として意識化せざるを得ないレヴェルに来るまでは何も感じないということが常態となります。
 わたしはひとりこの事態を「末法的身体」と名づけています。末法とは、仏滅後ある一定の年数を経た後に実践も悟りもなくなる暗黒の時代として日・中の仏教者に信じられた時代観ですが、果たしてこの末法という考え方は、吾が邦のある時代に特定の宗派の布教イデオロギーとして使われたように、わたし達がひとくくりに共有しあう歴史的時間のことを示しているのでしょうか。そうではなく精神と肉体との間に親密で広範な交通の流れを詰まらせてしまった身体が大半になる事態を末法時、末法の世であり、その逆ではないと解釈する必要を感じています。末法という時代は、人が自ら作るものです。わたしは、この末法的身体の上に構築された如何なる思想宗教の努力、教育、スポーツ活動から政治運動に至るまで、それらの中に多かれ少なかれ暴力の影、血液の痕跡を引きずらざるを得ないことを予想します。
 おもんみれば、リストカッターの少女達が自らの手首を刃物で傷つけるのが「自罰行為」であるというより、その身体への刺激を通して、乖離した自己を〈自己の輪郭〉という場に引き戻し確認する作業を行っていたのではなかろうかと思います。身体感覚が自我の原初的輪郭であったことを想起すれば、リストカッター達が刃物による痛刺激と、出血という強烈に視覚に訴える形によって、自我の輪郭の不安定さを修正しようとするのは理解不可能な表現ではありません。しかし、社会的な自己イメージと重なり合うようにして自我の輪郭を形成する身体感覚は、劣化した言葉の制度化と、生活全般がデジタル記号に覆われ、わたし達の思考も身体の使い方もそこに相応したことによって、ますますレンジの広い体験が難しく、無意識の領域に排除されてゆくのです。
 しかるに自傷により流れ出る血液とは、自我の輪郭としての身体を排除してゆくところに成り立つ文化が要求する供儀なのだ、といえるかもしれません。わたしは何故そう考えるのでしょうか。インドにおいてこうした末法的身体の時代、カリユガ(kali-yuga;暗黒期)における救済者は、しばしば暴力・血液・死・性などの境界のイメージを強烈に前面に押し出しながら表現されることがあります。例えばヒンドゥ・タントラにおけるチンナマスター(chinnamastA *10)は、そうした表現の極限と考える事が出来ます。この全裸の女神は自分の頭を右手の刀で切断し、首から激しく噴出する三本の血液の流れを、左手に持つ自分の頭と、左右に立つ二人の女神ダーキニー(DAkinI)とヴァルニニー(varNinI)に飲ませている姿で、横たわって交合する愛神カーマ(kAma)とラティ(rati)を足下にし踏む妖しい姿で表されます。
 この奇異なチンナマスターのイメージが本来示すのは、むろん本当に己の身体を傷つけることを見る者に勧めるのではありません。頭部で象徴される偽りの自我のイリュージョンを智の刀で切り落としても、決して真の己は死ぬ事はなく、他を生かして利益さえすることを、愛し合う二人の愛神を足下に踏むのは愛欲の超越を意味しています。そこでは死と性という両義性、無差別性、カオスと、自利利他のコスモスが融合した〈カオスモスの運動〉(*11)は、幻想によって包み隠されぬ真理として全裸の姿で担われることが象徴的に描かれています。しかしこのカオスモスのはたらきが、なまの身体感覚が意識可能な領域から徐々に排除されてある閾値に至ってバランスを崩すとき、彼女は暴力と血液を要求する恐ろしい女神として表出するのかも知れません。例えば少女の自傷行為として。
 身体とその感覚とは、個々の意識主体にとって常に内と外、自と他の境界的、両義的な領域でした。また洋の東西を問わず古代の思想家にとって身体は文化と自然の中間領域であり、よく言われるように、ミクロコスモスとマクロコスモスの一致の起こる場でありました。
 読み人知らずと聞く和歌、

   息は風、心は虚空、日はまなこ、海山駆けて、吾が身なりけり\r

は、まさに天地自然の運行がそのまま自身の身体感覚であり、その表現は自身即自然、自然即身体の響きであることを示しています。そこでは当然、信仰と生活、自然、身体とが共振し合う一大オーケストラであったのです。『宿曜経』(*12)では灌頂、護摩を修法すべき日時を細かく規定していますが、これは天地自然の運動、祈りという行為、自己がそれぞれの境界領域で交差し共振していた時代を偲ぶことの出来るものです。

 同じような感覚の記述が、ハタ・ヨーガ経典『シヴァ・サンヒター』に次のようにあります。

   この肉体の中にメール山があって、七つの島に囲まれている。
   そこには河があり、海があり・・・そこには巡礼の聖地があり、
   神殿があり、神殿の神々がおられる。
                  (Ⅱ-1,2.佐保田鶴治博士訳 *13)

 しかしこのように、それまで口承として伝えられてきた教えを敢えて〈書物〉として残さねばならなかったのも、恐らくこの経典が作られたと見られる11世紀頃、既に人々の身体感覚の変化によってハタ・ヨーガの伝達が困難になっていたことへの危機感からに違いありません。それは自己の身体、生命のはたらきそのものが宗教実践の場であった古代の人々の意識も、徐々に政治・経済システムの変容により、また合理的な道具や技術の導入による生活の変化により、その身体感覚から昼夜や季節、星宿のサイクルを引き離し、各々別個なものと見なし、分離するようになったからと考えられます。〈自我の延長〉としての身体、そのまた延長としての道具の使用が合理的かつ高度になれば、身体感覚は単純化・局所化されたものへと収束せざるを得ない一方、微細な身体感覚の広がりや豊穣さは無意識=影の領域へ反比例的に排除されてゆくことになります。更に人々の間で交換される劣化したことばは、その限りなく狭まった身体感覚を制度と化し、「神なき時代」という横断幕を掲げつつ末法的身体の文化の起源を隠蔽しさえするでしょう。完全無神論も、人間の内部に神を見出し、拝せない信仰も、そうした末法的身体が必然的に語る物語であるのです。

 かく太古の人々が身体の内に見出していた太陽や月、山河や、様々な動物たちの神秘的な動きは、いまや無意識の暗闇へと後退していきました。わたしは、そうした幽玄を司るものの後退は、吾が邦の『古事記』、国譲り神話に出てくるオオナムチやスクナヒコ(建国の主役であり、医薬/身体と関わりを持つ神)に象徴的に重なり合うような気がします。すなわち、幽玄なるもの=身体との関わり方が忘れ去られ、オオナムチやスクナヒコがうつし世からかくり世の無意識に御隠れになったことが病の始まりを意味したのではなかっただろうか、と。

 肉中の教え 

 タントラのある流派の供養法には、しばしばアルコール・肉・魚等のいわゆるパンチャ・マ・カーラ(paNca-ma-kAra)が用いられるといわれています。厳しい批判と偏見と好奇の視線に晒され続けたこのパンチャマカーラのイメージにより、それを真に受けた言語表現の独り歩きをした影響が、現代のインド、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本でもタントラのイメージとしてかなりの幅を利かせています。いま、わたしはそのような偏った不当な扱いに僅かでも対抗する事を思い、このコーナーの最後でパンチャマカーラのうちアルコール(madya)、肉(mAMsa)の二つの供養を選び、それらに関するカウラ派の経典『クラールナヴァ・タントラ(kulArNava-tantra)』(*14)の所説を挙げ、いわゆる「タントラ」と名の付くものに関心を持つ読者の方に、その他の供養の意味も類推しつつ、世間に流布されているヒンドゥ・タントラのイメージとの相違を確かめて欲しいと思います。
 
 繰り返し繰り返しムーラーダーラからブラフマランダラへと赴いて、
 こころの月とクンダリニー・シャクティ女神が相伴う歓びを生ずる人、(Ⅴ-107)(*15)

 空の蓮華から滴るスダー(甘露)を飲む歓びをえる人
 そのような彼は真のスダーを飲む者であるが、他の者は単なる酒飲みに過ぎない。(Ⅴ-108)

 上の詩は、アルコール飲料を神に供し、これを飲むのは、ただの酒飲みであり、一方、脊柱管のプラーナ(身体の内外を流れる生命の力)の操作を用いて、頭蓋の中に滴ってくるといわれる甘露を飲むものが真の酒を楽しむ者なのだ、という趣旨です。

 ヨーガに精通する者は、知識の刀によって功徳と不徳という獣を殺して、こころをパラー(至高の原理)への陥没へと導くならば、彼は真のパラーシー(生肉食者)と言われる。(Ⅴ-109)

 古よりインド人は、人間の悪善の行為(業)が、後に禍福として実を結ぶ潜勢力の存在を信じていました。徳(puNya)と不徳(apuNya)はその善悪の行為によって作られた潜勢力を指します。しかしもんだいは、個々のシーンでいったい何が善悪の行為なのか、それを適切に判断することですが、これは常にわたし達の頭を悩ませます。そこで古い時代においても、現代においても、数多くの善悪論が考え続けられてきました(ガウタマ・ブッダは当時のヴェーダが規定する善悪の価値観に強い疑問を提示していた一人でした)。
 インドでは特に伝統的なブラーミンが殺生を厭う風習があり、純粋さを誇るブラーミンほど肉食を嫌いますが、こうした人々の中には、ターントリカが神様に生肉を供えてこのお下がりを人間が食する、といえばに顔をしかめる人々も大勢います。しかし、この詩が解き明かすところでは、修習から生じた知識(智慧)の働きにより、そうした相対的な種々の善悪の挟間にある苦の呪縛を解き放ち、至高の原理にこころを溶解することが「真に供儀の肉を食べること」であると説かれています。
 これらの詩からはタントラの供儀の表現で最も際どい部分も、精神と微細な身体感覚の広がりがパラレルに進行することが分かります。思えばヒンディー語でタントラの語から派生したタントリカー(tantrikA)とは「神経」を、またタナ(tana)とは身体を意味する語でしたが、ここからもタントラが〈この身体〉に、こころの煩いと至福の両義性の問題に焦点を絞っていったことが類推できます。そこでタントラが常に〈この身体〉に見出していたのは、供養する主体、供養という行為、供養される対象とが不可分である〈人〉の発見であったでしょう。

 再び、〈この身体〉は末法の世、暗黒の闘争時代、カリユガにおいて、人を自家撞着に終始させる魔界なのでしょうか。それとも、かつて原始仏教や密教、タントラが示したような生の意味=方向性を産み出す大地となることがあるのでしょうか。それは今後、わたし達の一人一人の〈この身体〉にどう向き直り、如何にはたらきかけるかに掛かっているのです。(了)

(*1)『織田仏教大辞典』 織田得能著 大蔵出版 p.985より引用。
(*2)大正蔵 第17巻 No. 786 『仏説木患子経』
(*3)中国浄土教初期の形態が、多分に雑密的なプラクティスであったらしい事は石田充之著\r
   『浄土教教理史』p.47参照。
(*4)ヴィパッサナーvipassanAは近年南伝上座部系の教師が世界中で伝えている修道法であ
るという。この言葉の原意は「(様々な角度から詳細に、また深く)見ること」。
(*5)『排除の構造』今村仁司著 ちくま文芸文庫 p.89 「ファルマコンの本性」の項より\r
引用。
(*6)『仏教用語の基礎知識』水野弘元.春秋社 p.190 
(*7)もしも仮に、原始仏教から続いているはずの〈苦〉の問題設定を、近代的自我の苦とし
て一部、とらえ返すことが出来るとすれば、それはトラウマ/パラノイアの問題として考えることもできよう。原始仏教のこのような身体―人間存在の苦の洞察は、〈苦〉としてのトラウマの根源が、幼少時の自我獲得のプロセスの際に「自己の鏡像」が関わっていることを主張した精神分析家J・ラカンを2千年以上先取りしていたと言えなくもない。またラカンの「鏡像段階論」は、本尊を自の鏡像と観ずる密教の「入我我入観」とは何なのかを説明する一つの視覚を提供するかも知れない。
(*8)後期密教の方法論で特長的なのは、修道において多分にハタ・ヨーガ(haTha-yoga)の解剖生理、即ち身体を思考や感情と関わり合いながら流れる呼吸(風)を用いた微細身の操作を多く取り入れたことにある。ハタ・ヨーガの方法論は、謂アーユルヴェーダのトリドーシャ病理学を骨子としており、従って後期密教、ハタ・ヨーガ、アーユルヴェーダの各実者の間には、それらの思想成立において盛んな交渉があったことをここでも確認しておきたい。
(*9)『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳注 岩波文庫)の訳注を参照。『般若心経』の末尾の呪は一般に「往けるものよ、往けるものよ・・・」という女性単数呼格の羅列が翻訳としてよく知られている。これをそのまま素直に受け取れば、諸仏を出生する原理としての般若波羅密を仏母として神格化し、これをマントラとして崇拝する態度となり、純粋な若部経典というよりは寧ろ、『般若心経』を(雑部・初期の)密教経典としてとらえる余地が拡大することは間違いない。gate以下を女性単数呼格としてみるの他、男性単数処格とみる解釈、智慧の完成を求めてゆく菩薩の不断の運動中にこそめざめがあるという解釈の方が般若経典の思想に近いのではないだろうか。
(*10)チンナマスター(chinnamastA 断頭女)はタントラの信仰において重要視される十明女(dasha-mahAvidyA)の一。The Ten Mahavidyas,Tantric Visions of The Divine Feminine, David Kisley,Motilal,1997.India.
(*11)借用させて頂いたカオスモスの語に関しては『カオスモスの運動』(丸山圭一郎、講談社学術文庫)から多くの示唆を得た。
(*12)大正蔵 第二十一巻 No.1299 『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』
(*13)『続・ヨーガ根本経典』佐保田鶴治 平河出版社 p.173 より引用。メール山はわた
  し達人間の住む世界の中心にあると信じられている巨大な山。漢訳仏典、論書では須彌山(sumeru)といい、一小千世界の中心に聳える高さ八萬由旬の巨大な楔形の山である。ヒンドゥにおいては、メール山は黄金や宝石で出来ており、天界からガンガーの清浄な水    がその頂上に潅がれている。天体惑星はこのメール山を中心に巡り、ブラフマー(梵天)の住処とも言われる(モニエル)。聖化された心身においては、脊柱はそのまま世界の中心としてのメール山となり、各器官のはたらきは神や女神の顕現となる。
(*14)KulArNava-tantram, Rama Kumar Raya, Pracya Prakashan,1999.India.
(*15)〈この身体〉を自然界と等号で結ぶ時、映じる意味の世界は花や天体の光で荘厳された神々や夜叉が集いと見なされる。神々の世界は五つのエレメント順に構造化され、ムーラーダーラ等は、それらの神々が住まう各世界の象徴表現である。微細身に関するこれらの神話的記述は、解説書の類が巷に沢山出回っているにせよ、当初それらを想像の範
 囲内に引き寄せるには個人的には原典の翻訳である(*10)の文献が適当であると思われる。