その16 カルマ

こういう出来事は日常茶飯事でしたが、例えばある日、じぶんが貸していたお金を持ったまま行方を眩ましてしまう人がいると、卓越したターントリカであるラクシュミーシャンカルさんは決まって、

「いいさ。それは彼のカルマだ。」

と静かに言い、そうして普段の日常に戻って行くのが常でした。彼の言葉が意味していたのは、たぶん、

「他人に対してであれ、自分に対してであれ、自らなした行為はいつの日か再び帰ってくる。わたしのお金を持っていなくなった彼は、いつの世にか必ずわたしに返さねばならないことになるのだから、どうしていま心を騒がせることがあろうか。」

ということだったと思います。更に彼の語った短いコメントから、もう少し深読みすれば、次のようになるかも知れません。

「、、、、もしここでわたしが彼のなした事に心を騒がせ、怒りに任せる〈行為〉に流されたならば、再びその反動的〈行為の力〉が、わたしを束縛し、長く迷いの世界に自分の魂を繋ぎとめることを強化するであろう。そこにおいて心を静めようと努力すること、これ以上に大切なことがあろうか、いや、ない、、、。」

 このようにわたしが彼の短いコメントを(半ば強引に)展開してみますと、「カルマ」という言葉の背後にはインドで長時間懸けて熟成された巨大な思索が控えているように思われます。サンスクリットでカルマ(karma)の語は第一に「行為」を意味します。ところが、吾が邦や欧米でこの言葉を用いられる大部分の文脈は、現在のその人がそのようにあるあり方を規定する「過去の報い」という部分にウエイトが置かれており、「カルマ」の語が有するもっと本質的な意味が見えてこないような気がします。そのような解釈ですと、現在(/現世)の状態は全て過去(/過去世)の行為に規定されており、〈自由意志〉が入り込む余地のないペシミスティックな色合いで染めらてしまいます。「カルマ」のそういう捉え方は、その語が意味する一面的な切り口にあらわれた相でしかありません。「カルマ」、すなわち「行為」は、やはり今この瞬間、わたし達一人々々において「静止することなく行われて」いることも事実です。インドで古くから、過去において既に為された行為(カルマ)が現在や未来を規定すると信じられている力と、現在において自由意志に基づいて為される行為の関係について、西洋で初めて本格的なアーユルヴェーダ医師となったDr.Robert.E.Svobodaは、次のように説明しています。

「幾つかの書物では、サンスクリット語のカルマとダイヴァ(宿命)が相互に交換可能な語であるかのように使われていることもあるが、本当は宿命とカルマは同義の語ではない。人間がそのように置かれている状態とは、常に、宿命と自由意志という二つの連立運動から立ち上がってきているのであって、宿命だけとか、自由意志だけといった要素に還元できるものではない。そしてしばしば幾人かのインド人達が主張するように、なんぴとたりとも宿命のみで支配されているというのではないし、だからといって、昨今のニューエイジ主義のある者が声高に叫ぶように、自由意志ひとつでひとの人生すべてがバラ色に変わるということもやはり違う。、、、」(*1)

ここで言われているのは、これまでイメージされて来たような宿命としてのニュアンスを持ち、人々を畏怖させてきた「カルマ」と、いまわたし達がこの瞬間にも静止することなく為していて、かつ新しい未来を創造しうる可能性としての「カルマ」の両方に跨る不思議なリアリティへの誘惑、'妙'域へのいざないであろうかと思います。ところが、わたし達が今この瞬間にも静止することなく為し続ける行為は、見方を変えますと、自分が望まないのに否応無く、どうしようもなく、ある方向性へと身と口と意が行為せざるを得ないような一種の〈力〉のように見えてしまうことがあります。そんな途方に暮れるような状況にあることが人生の大部分を占めるわたし達に、ブッダは次のように語りかけてきます(*2)。

意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち  諸法は意に成る
意こそは諸法を統ぶ   けがれたる意にて
且(か)つかたり 且つ行わば  輓(ひ)くものの跡を追う
かの車輪のごとく  くるしみ彼にしたがわん

意は諸法にさき立ち  諸法は意に成る
意こそは諸法を統ぶ  きよらなる意にて
且つかたり  且つ行わば
形に影のそうごとく  たのしみ彼にしたがわん

(法句経 第一品「雙要」1~2 友松圓諦博士訳)

ここでブッダは、常に意が、身と口と意によって為されるわたし達のすべての行為に先行すると指摘し、意をきよらかにすることこそ、道の始まりなのだ、と説いているように読めます。しかし、意を「きよらか」にするというのは、一体どういう意味なのでしょうか。また最後の行の「たのしみ」とは何を意味しているのでしょうか。もう少し、この法句経を読んで見ましょう。

おのれあしきを作(な)さば  おのれけがる
おのれあしきを作さざれば  おのれ清し
けがれと清浄とは  すなわち  おのれにあり
いかなるひとも  他人(ひと)をば清むる能わず

(同上  第十二品「自己」156)

恐らくここで言わんとされている「きよらか」というのも、後に大乗仏教で強調されるような積極的な善を為して功徳を積むという考えに対し、むしろ「あしきを作さ」ないという消極的かつ堅固な心的態度じたいが「きよらか」な行為の中枢なのだ、というニュアンスが強いようです。
再び、法句経―――。

怨みをいだく人々の中に  たのしく  怨みなく 住まんかな
怨みごころの人々のなかに  つゆ怨みなく  住まんかな

(同上  第十五品「安寧」197)

ブッダや彼の弟子といえども、俗=世間という空間は、差別、怨み、貪欲によって中傷、暴力が加えられる可能性がありました(『排除、そして聖なるもの』参照)。ここでブッダが「たのしみ」というときは、差別や中傷やその他の暴力が必然な俗=世間にあっても、「こころの静けさ」に住することを指しているようです。一方、俗=世間でわたし達が専ら使う「たのしみ」という言葉が意味するのは、果たしてこころの静けさではなく、様々な刺激につぐ刺激の循環、本来なくてもいい過剰作り出してはそれを蕩尽すること(*3)や、憂さ晴らしの類でしょう。そして、それと同じレヴェルの感覚で、昨今は、「こころの静けさ」というラベルを貼っただけの実体のないイメージを、ひとつの商品として数量化され、貨幣によって交換され、消費されるモノとして見ることに何の疑問も抱かない世を生きてしまっています。

わたしが親しく教えを受けたグルや先輩のターントリカの生き様を想起し、またブッダの言葉に触れてみる時、いまこの瞬間、このわたしが為しつつあるカルマ=行為こそ、もっとも大切にすることができたら!!、、、と、わたしは再び、吾に帰るのです。

RamashankarとShivananda(97)

(*1)'Aghora-Ⅲ THE LOW OF KARMA' Robert E. Svoboda Rupa&Co. India 1998
(*2)『法句経』 友松圓諦訳 講談社学術文庫 1985
(*3)はじめにヒトの〈過剰-蕩尽〉のメカニズムを指摘したのは、フランスの文学者、思想家であったジョルジュ・バタイユ(1897~1962)であった。筆者は未だきちんとバタイユを読解しうる段階にはないが、経済人類学者の栗本慎一郎は『パンツを捨てるサル』の中で、ヒトの〈過剰-蕩尽〉を次のように要約している。「、、、ヒトは、生きるためには無意味な過剰を作り出し、それを一気に使い尽くす「蕩尽」に身をやつしているということだった。・・・(中   略)・・・しかし、無駄なことにもかかわらず、ヒトがそこに猛然と邁進するのは、その方向に突進すると快感が増大するように、ヒトの脳がセットされているからだ。何のかのと言っても、ヒトは自分が嫌いなことはたったひとつでもやらないのである。」(p222)

井口賢匠(Shivanada)氏 プロフィール
1969年、新潟県生まれ。大正大学仏教学部卒。専攻梵文学(卒論『三昧についての一考察-Yogasutra第一章三昧品を中心として』)。1988年に観光渡印、1993年、四大仏蹟巡拝。1997年、1999年に各半年間、Uttarapradesh州の古都Varanasiにて、Tantraraja Bolanath  Mishra Maharaj Jiに師事し、Kaula派に入門する。Akhil Bharatiya Tantrika Samaja会員。整体師。埼玉県在住。