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ふたつの奥駈けビデオをみくらべて(中山 郁)

(1)NHKスペシャル『心の行 熊野奥駈』
 NHK:平成11年(1999)
(2)『大峯奥駈けー修験道究極の行を求めて』
 金峯山修験本宗総本山金峯山寺:昭和62年(1987)
 

 「この中にはNHKのテレビをみて申し込まれた方もいるでしょうが、そのイメージも捨ててください、テレビの奥駆けは彼(ディレクター)の奥駆けです」。昨年夏、奈良県は吉野山の東南院における大峰奥駈け修行結団式で、東南院副住職が入峰修行者に語った言葉である。平成11年9月、NHKスペシャルで放映された『心の行 熊野奥駈け』(以下、『熊野奥駈け』と表記)は、諸方面からの好評を博した番組であった。また、翌年に役行者1300年の遠忌を控え、その露払いを見事に果たしたといえよう。更に、この番組で取材を受けた東南院の奥駈けへの参加希望者は翌年以降大いに増え、その影響は現在も続いているという。

 マスコミによって取材された修行が、一気に知名度を高めたり、参加者が増加するという現象は、今に始まった事ではない、比叡山の千日回峰や羽黒山(出羽三山神社)秋の峰入りなど、これまでにも幾つかの例がある。修行を扱ったドキュメント番組には、視聴者が持っている、潜在的な欲求を刺激し、具体的行動に浮かび上がらせる力があるのである。ところで『熊野奥駈け』は、ハイビジョンカメラと、ローアングルによって映し出された、美しい山の景観を背景に、参加者の心の動きをとらえるという構成になっている。リストラの担当者・阪神大震災の被災者・生死を見つづける看護婦達など、社会で働きぬきながらも、なにかを求めて山に向き合おうとする人々に焦点をあて、山での生まれ変わりを求める人々の心の動きを捉えようとしたのである。それが「心の行」というタイトルの所以である。こうした人間描写に重点を置いた作りのためか、修行の描写は所謂「荒行」をことごとしく強調することはない。それがこのドキュメントに重みと、視聴者の好感をもたらしている。その一方で、山での修行の扱い方の中には、その行を知る者からすると、「おや」と思う点も幾つか見られる。例えば、奥駈け修行中、前鬼裏行場という行場で修行が行われるのだが、その行の核心部は「天の二十八宿」という、鎖に身を任せ、垂直の岩壁を登攀する箇所にある。東南院の奥駆けではそれを済ませた後、希望者のみ、沢で水行をするのであるが、番組では、水行のみが取り扱われていた。そのためか、翌年以降の新客(初参加者)の中には、「水行はいつですか?」と聞くなど、裏行場イコール水行と思っている向きも見られた。

 この番組のディレクターは、プロの制作者としての誇りを持ち、この番組を世に送り出した。彼は番組撮影前に吉野から熊野までの奥駈け道を踏破し、撮影中も行者達とともに靡(拝所)で般若心経を唱えていた。彼が撮影対象たる修行者を共感的に理解しようとしていた、ないしは同じ山での体験を、修行者達と分かち合うのだという気分があったのは確かである。と同時に彼は、「プロだから、むしろ視聴者が何を求めているのか、それを踏まえて作る」とも語っていた。それ故に、この番組で示された大峯奥駈けの世界は、彼が体験し、そして感じ取った奥駈けなのであり、更にそれを、視聴者に訴えられる、ないしはアピールできるものとして加工した映像が『熊野奥駆』であるということができる。この番組の成功は、いわば、彼自身の奥駈けが映像を通じて成満した姿ということができよう。しかし、修行というものが極めて個人性の強い営みである以上、他者の体験は自身のそれとはなり得ない。番組の奥駈けがディレクターの奥駈け体験である以上、一般視聴者はともあれ、修行参加者がそれに体験を重ね合わせようとする事は不可能であり、同時に危険な事でもある。冒頭に挙げた東南院副住職の「テレビの奥駈けは彼の奥駈けです」とは、そうした意味なのであり、映像のイメージにとらわれず、各自が自分の奥駈けを見つけて欲しいというメッセージであったのであろう。

 ところで、同じく東南院の大峯奥駈けを紹介した映像資料で、総本山金峯山寺発行の『大峯奥駈け』というビデオがある。この作品はやはりNHKが十数年前に取材した番組のフィルムを、寺側が編集したもので、内容は奥駈けの出発点である吉野山から熊野までの修行の様子を、実際の日程に従って淡々と紹介するというものである。この作品の特色は、山での修行を擬死再生として説き、各拝所や行の紹介はするものの、あるべき行の姿や、教義や思想を強調しない点と、参加者の表情や感慨をとりたてて紹介することはない点にある。この作品を見る視聴者は、解りやすく、しかも淡々と奥駈けの様子を追うことになる。その意味で、同じ題材を扱いながらも、『熊野奥駈け』とは明かに違っている。その違いは勿論、ドキュメンタリーと紹介ビデオという、作品の性質の違いにあるのは確かなのであるが、一方、後者の作風は、製作者が意図したかしまいかは別にして、結果的に、山の修行というものの性格を表わしているのではないかと思うのである。山岳宗教においては神仏等の崇拝対象の顕現したものが山であり自然であるとされる。山に入り修行するということは、自然を通じて顕現する神仏を、自然を通じて感じるということに他ならない。勿論、それぞれの霊山には歴史的に積み上げられてきた、山の宗教的世界観と、それに沿って織り成されてきた修行などの実践体系が存在するが、それらは下界で活動する教団宗教のそれに比べて、非常に緩やかなものであり、修行によって山で得た体験の、個人性と個人差がある程度容認されている。修行者が心と体で感じるものを、規制したり、一定の型にはめこもうという気分は、修験系の修行には、比較的希薄なのである。つまり、例えていうならば、修行の舞台となる霊山とは、聖なる舞台装置なのであり、その舞台の上で何を踊り、何を感じるかは、基本的に役者個人に委ねられているのである。ついでに言えば、日本の霊山が、神道や仏教・修験道等の大きな伝統のもとにありながらも、なお多くの霊能祈祷師や宗教教団の揺籃の地となるのは、そうした懐の深さにあるからということができよう。

 どこの奥駈け修行にもリピーターが多い。毎年同じ道を歩き、同じ修行を繰り返しながらも、毎年の修行は違うと言う。自然に顕現した神仏の姿への、その時その時の各自の読み取り方の幅を認めるという性質の修行であるからこそ、それを紹介するには、ことごとしい作は必要ない、この作品は教団が作成したビデオだけに、修行のアウトラインを知ってもらうことが重要なのであり、実際に入って、どう感じるかということは、それは人それぞれなのである。そうした、奥駈け修行の性格の一端が、この作品に表れているのではないであろうか。

 最期になるが、この作品を見て奥駈けに来たという方を私は知っている。その人はビデオに映し出された、嵐の中、笠を傾け辛苦しつつ山を歩く姿に憧れて奥駈けに入ったが、彼が天性の晴れ男?であったためか、彼が参加してから数年間、殆ど雨の振らない奥駆けが続いた。1、2回目の参加の際にはそれを嘆いていた彼も、数年後には、雨などどうでもよくなってしまったという。ビデオのような情景を体験する事よりも、もっと様々な事を感じながら、奥駈けを歩くことの方が嬉しくなってしまったからだという。このような役割と、使われ方がされるのが、本作品なのである。

 上記2作品、作風は違いますが、それぞれ佳作です。お持ちの方は夏の入峰シーズンを前に、ビデオで「運心回峰」など試みてみるのもよいかと存じます。

付記
以上は(財)国際宗教研究所の宗教情報リサーチセンター(ラーク)のニューズレター『ラーク便り』 第13号の「視聴覚コーナーから」欄に掲載された「ふたつのビデオー金峯山寺、大峯奥駈けと熊野奥駈けー」に、若干の加筆訂正をしたものであることをお断り申し上げます。なお、上記のビデオは宗教情報リサーチセンターにおいても閲覧可能であることを付記しておきます(但、会員制)。

中山郁 略歴
昭和42年、東京都に誕生。國學院大學文学部神道学科卒、國學院大學大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。専門は宗教学、主に修験道や近現代の山岳宗教と巫者をフィールドとし、現在は特に木曽御嶽信仰を研究対象としている。現在、國學院大學兼任講師、(財)国際宗教研究所・宗教情報リサーチセンター研究員
論文は「修行型の巫者と非自発的憑霊-木曽御嶽行者の事例からー」(『山岳修験』第21号、平成10年11月)、「本明院普寛と上州武尊開山―『武尊山開闢記』をもとにー」(『ぐんま史料研究』第13号、平成11年10月)など。