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内観/月輪の聖者~ 興教大師/覚鑁上人について

前回に引き続き、高野山真言宗法福寺別院/河原龍靖先生より、『五輪九字明秘密釈』という覚鑁上人が晩年に記された最重要論文についての原稿を頂戴いたしました。ところで、真言密教の方を勉強されている方でも、覚鑁上人のお名前を初めて耳にするという方は、意外に多いのではないでしょうか。実は私も、勉強を開始した当初は『空海』というお名前は知っていても、『覚鑁』なるお名前を目にするのに、暫くの時間を要しております。それと、この『五輪九字明秘密釈』を読解するには、少しばかり基礎勉強が必要です。覚鑁上人は正覚房と呼ばれていた頃から、数度に渡って興福寺、東大寺などの南都諸大寺に留学し、法相(唯識)・三論(空観)・華厳という顕教の学問を修めています。これらは真言密教の基盤となる大乗仏教の教学で、ここがある程度理解されないとその上に乗っかている曼荼羅の構成理論などは解らないままでありましょう。その上で、念仏浄土の教えを真言密教と如何に理論統合するかを考えた末に到達された論文でありますので、河原先生曰く、「信者さん用に作って配布したけど、『チンプンカンプンで解らない。』との感想が続出しました。」とは無理もないことなのです。
そこで今回は、このHPをご覧の皆様のために、ささやかな解説のコーナーを設けることにしました。ここでは、まず覚鑁上人という方の輪郭を浮かび上がるようにしつつ、上人がこういう信仰に至った経緯を皆様が少しでも辿れるようにと考えて、ご紹介したいと思います。専門的な文言は極力避け(というか、難しくて書けません!)、出来る限り判りやすく説明してみます。ご参考にして頂ければ幸甚です。

1. 生没年月日:1095(嘉保2)年6月17日 ~ 1143(康治2)年12月12日
2. 生誕場所:肥前国藤津荘(佐賀県鹿島市・誕生院)
3. 父:伊佐平次兼元(いさのへいじかねもと)の三男/仁和寺成就院領の藤津荘惣追捕使
4. 母:肥前橘氏の娘・なみ/(後に出家)妙海尼
5. 諱(いみな):正覚房(しょうがくぼう)
6. 幼名:弥千歳麿(やちとせまろ)
7. 勅諡号(ちょくしごう):興教大師(こうぎょうだいし)(東山天皇・元禄3(1690)年12月26日)

<諸流遍学>
ます、覚鑁上人は仁和寺寛助僧正の資であって、広沢流の法流相承を最も重視したことに留意しなければなりません。その上で、鳥羽上皇の院宣を得、鳥羽殿宝蔵に秘蔵の小野相承十二合の秘書・道具類の閲覧を許され、弘法大師以降多くに分立した事相の統一を図るため、当時活躍していた諸大徳(台密の覚猷僧正を含めて)に投じて研鑚されます。こうして完成された法流は後に、『伝法院流』と称されることになります。
a) 勧修寺流/寛信
b) 理性院流/賢覚
c) 三宝院流/定海(じょうかい)
d) 中院流/良禅
e) 持明院流/真誉
f) 中ノ川流/実範
g) 三井寺門流/覚猷(=鳥羽僧正:この伝法においては、81歳の鳥羽僧正が特に喜ばれ、また受法の砌、覚鑁上人の身にも奇瑞があったとの伝があります。)
h) 保寿院流/永厳
i) 華蔵院流/聖恵(しょうえ)親王

事相面での研鑚は、まさに諸流遍学という言葉が相応しいものです。ここで『法流』ということについて、少し解説します。弘法大師が高野山にて永遠の定に入られた後、残された高弟は、それぞれが信じ、且つ啓示を受けた行法を次第書にまとめ、それぞれの弟子に付託しました。後に、野沢(やたく)36流と言われるほどに事相の実践方式は分派するのですが、これはこれから述べることと密接に関連しております。
密教の伝法においては、次第書だけで学ぶことは全く不十分で、弟子として師僧に受け容れてもらうという段階が極めて重要です。その上で、伝法の阿闍梨により"まるごと"瓶から瓶へ水を写すように伝えられなければなりません。(膝詰めで手取り足取り伝えていく様子を、思い浮かべて頂ければ、取り敢えずよろしいです。)ひとつだけ言える重要ポイントは、その時に師僧が何気なく発した言葉・動作など全てを、心身を総動員して受けることが必要だということです。従って、行者自身の瓶の器が小さければ、水が溢れてしまい受けられないということになります。師僧の側も、受者の器量をよく量った上で伝法します。故に弟子として師僧に受け容れてもらうという段階を経るのは、このような合理的理由があります。
いずれにしろ、そのように伝えられる性格のものですから、そう簡単な伝法は有り得ません。受法する側も、伝授されたことを厳格に実践するだけでなく、更なる研鑚を積み、創意工夫を用いて最終的には自己の血肉としなければなりません。(河原先生がかつて指導を受けられた故三井英光大僧正は、この辺りのことをご著書のなかで、「次第などに頼って拝んでいるうちは駄目で、最後は、そんなものメモ書き程度のものと思えるまで実修すべし、云々。」と言われています。)全身全霊という言葉がありますが、まさにそういう表現をもってこそ相応しいものだと思います。密教という神秘主義の教えが、単なる活字の継承ではなく、霊位相承とか言う言葉で説明されたりするのはこういうことなのです。従って、一流を受法するということを(本気で)やるなら、それは莫大なエネルギーを要するのであって、しかも以下述べるような複数の流派を横断的に修学されるのは並大抵な決意では出来ません。それら諸流の統合を期し、院宣を得て鳥羽文庫の秘書閲覧を許され、後世『伝法院流』と呼ばれる法流を創設されるに至ったというのは、もはや大事業という言葉以外ないと思います。

<虚空蔵求聞持法>
虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩真言を100万回という気の遠くなるような回数を、100日間ひたすら『一印一明一観』(最近になって幾つかの体験記が公開されています。ずっと以前テレビで紹介されていましたが、小声で真言を念誦していました。声帯を潰してしまうからだと…。)をもって唱え続ける行法です。弘法大師が空海という無名の私度僧であった頃、万巻の経文を暗誦/読解せんと発願し、土佐室戸岬で実修中、その結願の日に明けの明星を拝したところ口のなかに飛び込み、さらに谷間に響き渡った法界の超越的な声を聞くという神秘体験をされた行法です。覚鑁上人は、この行法を生涯に9回修され、うち8回を無魔成満されたと伝えらています。修行中に数々の奇端を経験されたとの伝が、数多く残っております。(春日明神、弘法大師の来迎等)河原先生のご意見では、「この貴重な瑜伽の体験を通じて、後の一密成仏を確信されるに至ったのではないか。」と。
私はこの虚空蔵真言の極限的念誦の体験が、当時沸沸として湧き起こっていた念仏信仰に対する秘密解釈の実修面からの確信となり、後に言われる『秘密念仏』という教義の形成にも強く影響したのではないかと考えております。

<『一密成仏』という教えの現代的意義>
覚鑁上人は、仁和寺において寛助僧正から受戒得度した時から、念仏門にこころを寄せていたと云われています。上人が生きた時代~平安後期~ というのは、まさに古代が終わり中世に至る過渡期で、世の中全体に大きな地殻変動が起きていた時代です。皆様は、『末法思想』というのを歴史の授業で習ったことがあると思うのですが、この時代は、要するに仏者の間にさえどうしもようもない閉塞感があったのです。即ち、末法=どんなに修行しても絶対に成仏できないと信じられていた時代が到来したからです。仏者にしてこうですから、経典に縁のない大衆は一体どうなってしまうのか。
こういう絶望的時代思潮のなかで、庶民が唯一希望を見出していたのが、平安中期頃から源信僧正を中心に広まっていた念仏浄土の教えでした。大体この時代の僧侶(学侶)というのは、権門特権階級の出が大多数であって、高い教育を受け、且つ荘園からの豊かな援助を受けていました。しかしながら、本当に救われなければならない庶民は、その日食べるものを得るに必死であり、教育を受ける機会など全くありませんから字など読める筈もなく、まして経典を読むことなど有り得なかったのです。(高野山だけでなく、比叡山や南都の諸大寺の僧侶が強訴を起こしていたというのは、寺におれば外護を受けて食べるものに困ることはありませんから、それを良いことにして、無学のならず者が多く紛れ込み、形ばかり僧服をまとう輩の温床に成り下がっていたという一面がありました。)
そういう庶民が只只『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで浄土往生が可能だと教えられたら、もうそれしかないと思いつめるのは当然の成り行きだったのです。覚鑁上人は、一方でこのような庶民階層出身の『聖方』の象徴的存在でもあり(先に述べた地方の中流武士/伊佐平次兼元の三男)、この阿弥陀如来の大慈大悲の思し召しを、自ら信じる密教教主大日如来への道とどのように折り合いを付けるべきか必死に考えたのです(=弥陀即大日)。密教の教えは、『三密』という身口意の完全調和がなければ、成仏しないという理論です。よって、字の読めない人々に次第書等を渡してみたところで、全く無意味であります。しかし、「意味が分からなくても真言という仏さまの聖なる言葉をひたすら唱え、こころに念じるのなら、成仏の妙果の無いことがあろうか。顕教の名号『南無阿弥陀仏』でさえ、人を成仏させるのだから。」ということを、覚鑁上人は五輪九字明秘密釈で主張しました。これこそ『一印一明一観』の修業体験の確信に基づく真骨頂であろうかと思います。上人は『一密成仏』という言い方をされて、たとえそれが三密を具足していない祈りであっても真心を込めて実修するのなら、やがてそれは『二密』となり最後には『三密』の妙果となって成仏するのだということを、この論文で述べておられます。
私は以前から、この教えのもつメッセージ性に注目しているひとりです。実はそれは、"実修に励む全ての行者に対して"の大変重要な隠されたメッセージ性という意味でです。普通、この教えは、在家の方に対する福音とするのが一般的ではないかと思います。河原先生のご意見の趣旨もそこにあることは、言うまでありません。しかしながら、私は一方で覚鑁上人のある意味で非常に厳しい一面を、ここに見る想いが致します。特に、三密実修を自他ともに標榜した『学侶』にとって、誠に苦々しきメッセージの筈です。
若し完璧に三密具足できる行者がいるとしても、我こそはと手を挙げる者などいないでしょう。人間として生きること自体、煩悩の宿業体ゆえに、その享受する苦との共存であることを、釈尊は説かれているからです。学侶であれば、誰でもこのことを知っております。だからこそ、密教はその隘路を突破する方法として、慈悲と智慧の両輪を追求してブッダへの道を求めました。即ち、大悲胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅で表す宇宙観です。慈悲だけでは足りないし、智慧だけでも不十分なのです。密教の行法の次第は、この両輪をもってシステムとして完成されております。ところが実際には、慈悲のこころを全く解しないままに行法を修したり、或いはその反対に、慈悲のこころはあっても勉強不足で満足な実修が出来ないなど、それは能力の問題というより、今申し上げたブッダの教えによる業と煩悩の因果に依って一回で悉地成就するほど甘くないことを意味しており、行者であれば皆思い知っております。言い換えるとより完璧な三密行を目指して、各流に分派したと言っても過言ではないと思います。そういう絶対矛盾の苦しみのなかで考え出された教えが、真言念仏/一密成仏なのです。
当時、良禅僧正を中心とした金剛峰寺方(=寺方)は、このような弘法大師にはない『過激』な教えを不服としました。鳥羽上皇の一層の信任を得て伝法院(=院方)を建立し、且つ金剛峰寺座主職を東寺長者とは別個の役職としてしまった、この仁和寺出身の成り上がり聖に対して、一山の伝統を乱す者として嫉妬と憎悪の目が向けられたのです。そしてこの対立関係がやがて、高野山全山を揺るがす大騒動となり、その渦中においてひとり懺悔の千日間無言行をされた時に、以下の有名な文章を書かれました。これは後世、古義真言の僧侶であっても一度は目にし、新義真言の僧侶であれば朝夕のお勤めにおいて必ず唱えるべき文章となりました。以下、全文を掲げてご紹介いたします。

8. 密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)

我等懺悔(さんげ)す無始より来(このか)た 妄想に纏(まと)はれて衆罪(しゅざい)を造る
身口意業常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す
珍財を慳悋(けんりん)して施を行ぜず 意(こころ)に任せて放逸にして戒を持せず
屡(しばしば)忿恚(ふんに)を起して忍辱(にんにく)ならず 多く懈怠(けたい)を生じて精進ならず
心意散乱して坐禅せず 実相に違背して慧を修せず
恒に是の如くの六度の行を退して 還って流転三途(るてんさんず)の業を作る
名を比丘に仮って伽藍(がらん)を穢し 形を沙門に比して信施を受く
受くる所の戒品は忘れて持せず すべき律義は廃して好むこと無し
諸仏の厭悪(えんの)したもう所を慚(は)ぢず 菩薩の苦悩する所を畏れず
遊戯(ゆうぎ)笑語して徒(いたづら)に年を送り 諂誑詐欺(てんのうさぎ/てんきょうそぎ)して空しく日を過く
善友に随がはずして癡(ち)人に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む
利養を得んと欲して自徳を讃し 勝徳の者を見ては嫉妬(しっと)を懐く
卑賤の人を見ては?慢(きょうまん)を生じ 富饒(ふにょう)の所を聞いては?望(けもう)を起し
貧乏の類を聞いては常に厭離(おんり)す 故(ことさら)に殺し誤って殺す有情の命
顕(あら)はに取り密(ひそか)に取る他人の財 触れても触れずしても非凡(かぼん)行を犯す
口四意三互に相続し 仏を観念する時は攀縁(へんねん/はんねん)を発(おこ)し
経を読誦する時は文句を錯(あやま)る 若し善根を作せは有相に住し
還って輪廻(りんね)生死の因と成る 行住坐臥知ると知らざると
犯す所の是の如くの無量の罪 今三宝に対して皆発露(ほつろ)したてまつる
慈悲哀愍して消除せしめたまえ 皆悉(ことごと)く発露し尽(ことごと)く懺悔したてまつる
乃至法界の諸の衆生 三業所作の此の如くの罪
我れ皆相代って尽く懺悔したてまつる 更に亦た其の報いをうけしめざれ。

真言密教の勉強された方で、この懺悔文を知らない人は、実はいらっしゃらないと思っております。修行中、どこかで必ずお唱えする機会があったはずです。それなのに、一般には余りにも知られていません。布教のテキストとして用いられたことは、まずないのではないでしょうか。実際、「内容が凄すぎて、額縁に大書する勇気がない。」という声のあるのを、聞いたことがあるくらいですから。しかし、心ある行者であれば声には出さずとも深く念じて、少しでも近づこうと、日々精進に励んでおられるに違いない―――、私は信じております。

この懺悔文は、覚鑁上人が、先に述べた寺方と院方の騒動の際、無言行のため密厳院に籠居されていた時に書かれたものと伝えられています。この間、覚鑁上人は無言行と同時に、八千枚護摩の修行をされました。金剛峰寺方の衆徒(多くは字もろくに読めず、食い扶持を得るため寺に潜り込んでいた輩が大半だったと言われています。)の乱暴狼藉は終息せず、僧侶としての生活態度も乱れていました。こうした状況下で、自ら筆を取り、僧侶としての反省と自覚を促すため書かれたのです。
特に、下線を付した部分は、後世『代懺悔』と云われるようになった箇所で、ひとりの宗教者として、ご自身が大変な決意をされたことが伺えます。ただただ頭の下がる思いで、全く身の縮むような思いが致します。
ここでは、敢えて訳文をつけずに置きたいと思います。私如きが偉そうに掲載するのはどうかと躊躇いたしましたが、このようにして歩まれた方がかつていたのだということさえ知って頂ければ、それで良いと思っております。

未乞児氏 プロフィール
1962年東京生まれ。1985年日本大学法学部法律学科卒業。公務員の父親の転勤で小学校低学年の時代を、大阪府八尾市で過す。その間、家族らと生駒山、葛城山、金剛山などを修験道の聖地とも知らず、奈良の諸寺を拝観する傍ら歩き回る。拝観のお寺は100箇寺近くに及び、長じて真言密教の世界に足を踏み入れる。
現在、丸の内の某商社系物流会社にて、自動車関連の国際物流事業を担当する傍ら、密教及び修験道を履修中。