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二息家(にそくけ)/(未乞児)

1.プロローグ
甑岳先生から「これどういう意味でしょうね。」とのメールが、ことの発端でした。「何でも出塩文殊堂に伝承されている護摩次第で、山形内陸地方でずっと行われていたらしい。二息家というのは、早早に出家するくらいの意味らしいのですが。」とのことでした。最初検討がつかなかったのですが、「真言立川流などで言っている出入の息、即ち『阿』『吽』という二息の冥合のような気もしますが…」、とご返答したところ、「それは面白い見方ですね。」との意外な(?)返答があり、「ではこれをモチーフに何か投稿でも」との話しになりました。その後、二息家という例の文言のある不動法のコピーを頂戴し、早速内容を自分なりに検討してみました。真言系の護摩次第とのことなのですが、五大尊の拝み方や、各真言の内容など、醍醐三流(三宝院流・理性院流・金剛王院流)のそれであろうとの推測はできました―――。
これから述べる意見は、私の拙い知識を基盤にして成されたイメージぎりぎりの展開で、別段学問的裏付けがある訳でないことを、予めお断りさせて頂きます。単なる雑文として気楽に読んでください。

2.真言立川流について
この一派は、鎌倉時代に大流行したとされております。『公式には』真言宗の異端派です。この流派の特色と云うのは、道教の陰陽の教えを密教の不二という教えに重ねあわせ、男女の交わりをもって即身成仏の境涯に到達せんとする、所謂性ユガの教えを大真面目に教義としているところだと思います。しかも、髑髏本尊なるものに男女の交合によって得られる体液を何度も塗り込めて、時にダキニ天が住するという屍林において修行するとする、およそ一般社会とは極端にかけ離れた世界を求めることによって、出世間の境涯を現出させようと試みた一派です。この立川流では、『女仏』という女性の資(=立川流独自の女性受灌者(*))を認めていたらしく、当時女人が成仏するなど有り得ないと信じられていた時代ですから、この点からも『過激な』教えであったことが想像されます。また、理趣経の十七清浄句を文字通り解釈して、実践したことが知られています。彼らは、その教義のなかで『赤白の二締』(しゃくびゃくのにたい)という言い方で、男女の区別をもって独自の二元論を展開し、最後にそれが不二という形で一元に全て還元するということを主張しました。

金剛界 → 陽 → 智 → 吽字 → 不動明王 → 男 → 白(精液)
この二つが一つに交わる。
胎蔵界 → 陰 → 理 → 阿字 → 愛染明王 → 女 → 赤(経血)

この教義の存在を知るに至った高野山の宥快法印・東寺の杲宝僧正ら中央の諸大徳が猛反発し、徹底的な粛正が行われて歴史上から消滅しました。特に、宥快法印は高野山山王院の前庭において、目録のみ残し、後はすべて焚書坑儒したと伝えられます。
(*)平安時代の成賢僧正の記した『纂元面授』(さんげんめんじゅ)によって、立川流にも独自の灌頂が存在していたことが知られている。

3.阿吽の呼吸
よく息の合った関係を、「阿吽の呼吸で」と言ったりします。即ち、「阿」という梵語の始まりと、「吽」という梵語のお終いの関係を、ひとつのものとして見ているのです。
ところで、この呼吸の重要性というのは、密教の行法において頻繁に触れられております。例えば、数息観という阿字観に入門した時点で習う観法は、解説書を見れば「出入の息」という言い方で表現されることにお気づきだと思います。但し、決して二息という言い方はしません。私はこの点について、何となくなのですが、敢えて二息という表現を採らないようにするというのが、先徳方の配慮ではないかと考えているのです。
密教の教義において、「而二不二」(にに・ふに)という重要な考え方があります。ひとつのものを複数のものとして捉えるか、複数あるものを一つとして捉えるか、という考え方です。どちらに偏っても本義を捉えることはできないとするのが、古来よりの戒めですが、実践面ではどちらかを表にする必要がありますので、而二を表とする一派を修生家(衆生が成仏するには修行が必要)/不二を表とする一派を本有家(衆生はもともと仏と等しい)として、宗内で論争が行われました。

4.不二という教え
而二不二という教えにおいて、現在も主流となっているのは恐らく不二の方ではないかという気がします。日本人には、一元的な見方の方がしっくりくるからだという意見があります。真言立川流の流祖というのは、醍醐寺出身の仁観僧正とされています。真言宗には、野沢(やたく)36流と言って、事相の取り進め方・儀規の解釈方法などに工夫を凝らしたそれぞれの流派を擁しております。そのなかに、冒頭で述べた三宝院流という有力流派があり、この三宝院流は不二を建前とし、且つ他流派に比して道教の混在が著しいという指摘があります。
ところで、醍醐寺三宝院というのは一方で、当山派修験道の元締めなのですが、当山派が伝法してきた恵印流という教えは、不二の思想を一層徹底させているという研究があります。特に教えのなかでしか伝えられてきておりませんが、不二大日如来のお姿など、その象徴的なものと思われます。(智拳印を結ぶ腕と法界定印を結ぶ腕が、ひとつのお姿に表されています。)仁観僧正は、醍醐寺座主勝覚僧正(三宝院の開基)の実弟でしたから、当然のことながら不二の教えのなかで育ってきておられます。本当にこの方が、立川流の流祖かどうかの真偽はさておき、いずれにしても不二の教えが曲界されていることには間違いなく、而二門を表とされた宥快法印が宝鏡抄によって徹底批判の立場を採ったことは、教学論争としても非常に興味深いところです。
私はこの点について、立川流が主張する二つのものが一つに交わって最後に「完結」する、即ち成仏の身となるとするのは、明らかに弘法大師の請来した真言密教の教義から大きく逸脱した曲界の論であると思っております。人は倫理的な面から立川流を捉えがちですが、それに本旨が覆い隠されてしまったところに、立川流の一つの悲劇性があると思います。立川流の論は、私は時に一つであり、時に複数なのだという曼荼羅の教えを曲げてしまうことにつながると考えております。若し、彼らが主張するような論であれば、外金剛部の諸尊には、常に大日如来と一体なるような「強制的努力」を払わなければならないベクトルが働くはずです。言いかえると、その宗教なり信仰の絶対性と対峙する関係を逆に作ってしまうことに繋がりかねません。これが、現代世界を覆う宗教対立の根源であります。外金剛部の存在とは、緩やかな共生があることで、大日如来の一員としての個性も認められるという高次元のヒエラルキー(= ハーモニー)を人々に教えているものです。そのベクトルは、決して中央の大日如来にのみ向かっているのではなく、その反対方向にも向かっていることを忘れてはなりません。つまり絵が切れている先にも永遠の宇宙があり、外金剛部の諸尊はその広がりの魁でもあるのです。即ち、『絶対』という指向性の概念を持ち込むことによる重大な危険性を、我々はこの際認識すべきではないかと思っているのです。

5.二息の本義
人間がこの世に誕生して臨終するまで、絶え間なく続けるのは呼吸という営みです。突然ですが、私が阿字観において伝授された数息観について印象に残った点をお話します。
(1) 先ず息を吐く、次に息を吸うという順序
(2) 息を吐いていくと、自然と息を吸うようになるとして、息を吐く方に意識を置く

の二つです。ご覧の通り出→入の順番なのですが、これを入→出という順番で表現することは、他でもないような気がします。例えば、「出入口」とは言っても「入出口」とは決して言わないように。どうしてそうなのか、良く判りませんので、ここではこの辺に止めたいと思いますが、個人的な印象から言うとひとつの清浄感をもつに、この順番の方が良いように感じます。つまり、不浄の気をまず排出するのが、ブッダ以来の清浄行の伝統を踏まえるのではないかと。
先に述べました二息という表現から揺ら揺らと想起されるものが、もし冥合という表現であったとすると、それは立川流特有の標識となってしまい、正統を認ずる学侶が敬遠したとすれば、例えば山形のような中央から遥かに離れた地域でその痕跡を幽かにでも残すということは有り得る話しです。地方には地方なりの中央とは違う、例えばもっとおおらかな独自の認識があるからです。
この出入の呼吸という感覚は、瞑想してみると感じるのですが、非常に微細な感覚的刻印とでも言うべきもので、呼吸は自身の心音、他者の心音、やがて大地の心音と同化し、地球の回転する音に、最後は宇宙の心音に溶け合ってしまうかのような摩訶不思議な世界に誘うような気がします。まさに「冥合」です。

6.三宝院流
私の実家は横浜の金沢文庫という場所にあります。ここは、鎌倉時代に北条実時によって創建された金沢文庫(真言律宗別格本山称名寺境内にあります)の呼称を今も残し、現在、神奈川県立金沢文庫博物館として、歴史資料研究・展示等が行われています。以前、ここでは「中世の密教展」というタイトルだったか(?)定かではないのですが、鎌倉時代に関東地方に伝法された真言密教関連の古文書・聖教類についての展示が行われ、私はそれを見学に行ったことがあります。入り口をくぐると、正面に見上げるような大きさの極彩色の弥勒菩薩が立っておられ、その左右には極彩色の両部曼荼羅が掛けてありました。大壇も形だけでしたが四面器で荘厳されており、若しここに供物等が準備されたら、もう完璧な密教寺院だなと感じたものです。その展示資料のなかで、私の目をことさら引いたものに三宝院流の血脈図があり、今でも妙に生々しい記憶が残っております。また、元攻の際に降伏の修法に用いたと伝えられる吽字本尊の軸などは印象深いもので、褪せた吽字の色が却って血痕のように見えて、おどろおどろしい感じがして仕様が無かった記憶があります。
その後知ったのですが、鎌倉時代から南北朝時代には三宝院流を携えて関東地方へ下った学僧・聖はかなりの数に昇るようなのです。そう言われてみれば、有名なところでざっと上げるだけでも、高尾山中興の俊源大徳(松橋流?)、高幡不動中興の儀海上人(中性院流)、足利鶏足寺の慈猛上人(松橋流)、鎌倉雪ノ下の意教(=頼賢)上人(意教流)、鎌倉極楽寺の忍性上人(西大寺流)など、錚錚たる大徳が並びます。少し時代は下りますが、室町時代の南関東(現在の横浜周辺)で活躍された印融上人(杣保隠遁鉦(せんぼいんとんしょう=真言宗義の集大成書)の著者)、も三宝院流の大家と言ってよろしいかと思います。
私見ですが、三宝院流一派というのは、もともと先鋭的な行者集団だったのではないかと思うのです。実際、この流派ほど多彩な発展をした事相流派は他にありません。その証左として、醍醐寺自体が当時の学究機関のような役割を果たしており、現在も引き続いて現存資料の研究が行われていることが知られています。言うなれば、密教のあらゆる可能性について、事相面からの自由闊達な創造が行われたということが想像されるのです。その資料が武蔵国金沢(古くは"かねさわ"と読みます。)にある鎌倉幕府の文庫内にそのまま収められ、関東地方での布教センター/研修センターとして機能したことは十分に考えられることです。また、三宝院流は古義派の行法と考えられがちですが、その支流たる中性院流(ちゅうしょういんりゅう)というのは、新義派中興の頼喩上人(らいゆしょうにん)の創設した一派ですから、新義派の教学を学ぶ学侶・聖で、事相面は三宝院流によった方は大変多いのも事実です。それだけ懐が深いというか、裾野が広いということなのでしょうか。(因みに智山派の事相は、三宝院流憲深方(報恩院流)に依拠しています。)

7.結論
上記4で述べましたが、三宝院流に道教の教えが混在しているという指摘があります。事実、祈祷札を多く拝むのは、道教の影響からでしょう。数ある願意のうち、厄除け・方位除けなどその最たるものです。但しこれは、事相の先鋭集団の特色として大いに有り得る話しですし、実際当事者は混在などと考えていなかったでありましょう。言えることは、先鋭集団の中のさらに先鋭的な連中が、密教が本質的にもつ「肉体の肯定」という思想に肉迫することを真剣に追求する過程において、道教の陰陽思想を更に取り入れ、更に性ユガの教えを先鋭化させているうち、立川流として結実してしまっただけの事かも知れません。密教の発展する過程を見れば、地域、地域の民族信仰を吸収してきているわけで、密教自体が本質的にそのような特質を秘めていることに留意すべきだと思います。(密教自体が呼吸しているようなものなのです。)
つまり、「単なる観想に頼るだけの伝統的祈祷法では、極端な観念論としてしか有り得ず、言うなれば淡雪のごとく簡単に解け去って何も残すことはなく、まして悟りなど程遠い、然らば世界の構造そのものを揺るがすだけの力の発露を成就すべく、肉体の大肯定に踏み切るべし!それこそ、行法の妙果を確実に現実化する有効な方策なのだ!宗祖は『父母より頂戴したこの身このまま成仏できる』と言われたではないか!『否、成仏すべきなのだ!』と狂信し、それが偶々立川流という地点に行き着いたに過ぎないのではないか」、そんな気がしております。
恐ろしく楽天的な一派とでも云うのでしょうか。ここまで露骨な考えを見せ付けられると、何だか戒律を護持することがバカバカしくなるようなそういう諸刃の教えなのでしょう。それだけに、当時の先鋭的な修行者集団に大きなインパクトを与えたことは間違いないと思います。この悪魔的な楽天性は、同時に悪魔的と言うほど優しい特性をも発揮するような気がします。つまり、「生まれて育った父母の愛情溢れる我が家、出入の呼吸を続けることを無条件で許され(=成仏の妙果を具現化するところの肉身を持つことを、父母という男女の冥合の結果許され)、父母の愛情という『阿』『吽』の呼吸が完全に溶け合った『冥合』を無条件に享受できる我が家」を今出て行くというメッセージを、二息という言葉に込めることの方が、例えそれが邪教集団のものであったとしても、出入の呼吸などという無機質な表現よりもずっと響いてくるではないかと。教理や理屈ではない、密教というのは肉体的=感覚的=直感的なものだ、目を凝らせ!耳を澄ませ!全身で感じろ!飛び込むのだ!と真剣にファ ナティックになったなら、私もかような表現の魔力に魅入られたかも知れません。
この立川流という教えは、邪教だからと割り切れるほど単純なものではなく、密教が本質的に保持する凄みのようなものの一断面と言うべきなのかも知れません。要するに心得違いをする行者となれば、即刻陥る落とし穴(=邪教だからなどという言い訳はそこには存在しない)であって、それが紙一重の向こう側でいつも手招きして待っているのだと思います。いや、皆知らないうちに落ちているかも知れません。死んだばかりの生き物の臓腑に手を突っ込んで感じるようなヌルッとした生暖かい感じ…。耳元で幽かな息遣いを(誰かは判らないけれど)感じるような艶めかしい感じ…。正統を任じる学侶には理解したくない感覚世界なのでしょう。

「正だの邪だの、一緒ですわ。坊主と言えど、妻帯はしとる、酒は飲む、みんな、同じ熱い風呂に入ってるようなものですさかえ、となりの水風呂のよさを考えてみい、言うても無理ですわ。」『邪教・立川流』(真鍋俊照著)の後書きにあるくだりです。大阪の某著名なる弘法大師信者であるところの住職さんの意見だそうです。毎月21日/御影供の高野山団参をこの13年かかしたことがないそう―――、とのことでした。「恐わー…。」


未乞児氏 プロフィール
1962年東京生まれ。1985年日本大学法学部法律学科卒業。公務員の父親の転勤で小学校低学年の時代を、大阪府八尾市で過す。その間、家族らと生駒山、葛城山、金剛山などを修験道の聖地とも知らず、奈良の諸寺を拝観する傍ら歩き回る。拝観のお寺は100箇寺近くに及び、長じて真言密教の世界に足を踏み入れる。
現在、丸の内の某商社系物流会社にて、自動車関連の国際物流事業を担当する傍ら、密教及び修験道を履修中。