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平成15年羽黒秋の峰入りを控え/(甑岳聖海)
 これまで誰も覗けなかった世界があります。それが羽黒修験最大の宗教儀礼である秋の峰入りです。この甚深秘密の修行中は、大事件は何も起りません。1,400年に渡り受け継がれた山伏の十界行が淡々と執行されるだけです。しかし、この秋の峰の参加者は勿論、修験の関係者や研究者が驚愕する事が起きようとしています。平成十五年の行事一切がハイヴィジョンカメラで撮影されるのです。古より門外不出だった行事が、羽黒修験の山伏のみが目の当たりにしてきた秘儀が、映像として記録されるのです。

「秋の峰」と呼ばれる修行は、この世の執着を断ち、新たに生まれ変わる為に娑婆世界と隔絶した空間に身を置きます。この行は羽黒山頂近くの荒沢寺を中心に毎年8月24日から9月1日までの間に繰り広げられます。特にこの羽黒の秋の峰は、地獄から菩薩に至る十の段階を様々な儀礼を通じ体験して行く事から、十界行と呼ばれています。この十界行はもともと修験道の修行の眼目として、吉野を始め全国の行場で行われていましたが、長い年月の間、そのオリジナルの姿は失われてしまいました。修験のメッカと云われる吉野・熊野は険しい山々が連なるとは言え、都にも近く南北朝の対立を始めとする政変などによる弾圧や、当山派(真言派)と本山派(天台派)間の権力争いなど、度々紛争の舞台ともなりました。しかし、羽黒は、当山派(真言派)にも本山派(天台派)にも属さずに独立を守り、昔からの修行形態を維持してきたのです。羽黒の秋の峰は、修験道の真髄を伝える貴重な宗教儀礼であるばかりではなく、仏教と山岳修行が融合した我国独特の精神文化を、ほとんど損なう事なく伝承しています。羽黒の十界行は、云わば古来から封印されてきたタイムカプセルなのです。

十界行の十界とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏の世界を云います。羽黒での行の初日は宴会から始まります。この宴会は葬式の意味があります。即ち、自分で自身を供養する事から羽黒の行は幕を開けるのです。そして翌日は、隊列の前で黄金堂に大梵天が投じられ、山頂の篭り堂・荒沢寺に出発します。大梵天は男根を顕わし、黄金堂は子宮を象徴します。即ち、羽黒の行は擬死再生をモチーフとしたストーリーの中で、仏教の十界を辿る一大叙事詩なのです。闇の中、ロウソクの光の中で行われる懺悔の経文を唱えながら、南蛮いぶしという辛い煙に苦しみ、断食をしながら、俗世の欲を削いで行きます。疲労が蓄積する中、肉体は抜け殻となり、次第に意識のみが覚醒して行きます。修羅行として行われる天狗相撲で最後のエネルギーが抜き取られると、篭り堂に臍を象徴する飾り物が吊るされます。こうして人間を通り過ぎ、仏となるべく十界行が続けられて行きます。

十界の各々の世界は、多様な儀礼に象徴されます。行者はこれら儀礼に参加する事で十界を巡る事になります。南蛮いぶしは地獄の行、断食は餓鬼の行、手足をも使い山に分け入る事は畜生の行等など。述べていけば、その諸作法の仔細は底をつく事がありません。それだけ、羽黒の秋の峰入りの儀礼は繊細なのです。クライマックスとなるのは仏の段階に達する直前に執り行われる柴採護摩です。漆黒の闇夜の中、導師が松明の火を体で受ける火生三昧や湯立ての儀式を行い、ブナの木で組まれた巨大な護摩壇に火が燈されます。既に菩薩の位を得た行者たちの加持力を合わせ、護摩の火はこの世の煩悩を焼き尽くします。山伏たちの読経と炎が織り成す柴採護摩に観客は一人もいません。結界の中で行われる荘厳極まりないこの儀式を外部の人間が覗いた事はこれまで一度もありません。この護摩は1,400年もの間、羽黒山伏が伝承してきた秘儀なのです。

羽黒の秋の峰を満行しても、何の自慢やステータスにもなりません。皆この行事の為に、仕事のリスクを抱え、家族サービス返上で、夏休みを費やす事になります。この行を終えると、また娑婆での行が始まるのです。この行にまた来年も参加出来るかどうか、また一年の間、皆は自分に試練を課す事になるのです。今年も、娑婆での試練を乗り越えた山伏たちが羽黒に集う日が近づきました。皆それぞれに新たな業を背負いながら、自分に対しての滅罪を祈念します。羽黒修験の擬死再生とは、精神的な蘇りをさすのです。各自の願いから、自身を浄化し自己を超越した利他行の祈りへと昇華する秋の峰。この尊い行が、今年もまた始まろうとしています。

今、羽黒を始め全国の修験が抱えている問題は、行者の高齢化です。修験の世界に足を踏み入れる若者も多くなったとは云え、先達になるまで行を続ける事が出来る者は一握りです。ましてや、その中で儀礼の伝授を許される者は更に極一部です。伝統的な儀礼の維持は磐石なものではありません。こうした中、羽黒の秋の峰の行事一切が映像として記録保存される事は修験の世界で、意味がある事だと思います。大先達のご決断は、後世に大きな足跡となる事でしょう。何らかの機会で、私たちが記録した映像をご覧になる方もあるかもしれません。私たちが亡くなっても確実にこの記録は残ります。今年限りの封印の解き放ちを、神仏が与えて下さったご縁として、しっかり記録して参ります。